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「商売は人助け」おいしくて健康に良い商品づくりに生涯を捧げたカルビー創業者・松尾孝の情熱

突然ですが、「カルビー」という社名の由来をご存じでしょうか。
これは「カルシウム」の「カル」と「ビタミンB1」の「ビー」を組み合わせた造語です。カルビーの創業期、まだ戦争の影響で食糧不足が深刻な中、ビタミンB1の不足による栄養失調者が多く、また、栄養学の専門家からカルシウムの摂取が健康に良いという話を聞き、「人々の健康に役立つ食品づくりを目指す」とこの社名が生まれました。

その社名を考えたのが、カルビー創業者・松尾孝(まつお たかし)さんです。広島県で生まれた孝さんは、食糧難を救う健康食品の開発を始めました。その後、次第に食糧が行き渡ると、「かっぱえびせん」や「ポテトチップス」といったお菓子を生み出していきます。

カルビーの創業者が、これほど健康への思いを強く抱いていたとは知らなかった人もいるのではないでしょうか。松尾孝さんは、健康でおいしい食品にこだわり続けた研究者であり、そのためにさまざまな常識を覆した人物でもありました。

今回は、松尾孝さんの孫の二宮かおるさんにお話を聞き、その人物像に迫りました。

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二宮 かおる
カルビー株式会社 社会貢献委員
出版社等に勤務後、1995年カルビー入社。広報、PR、WEBコミュニケーション部門などを歴任。2009年より社会貢献委員長。2021年3月末に委員長を退任し、現在は社会貢献活動の推進をサポート。

18歳で家業を継ぎ、食品の研究・開発に没頭

「祖父は経営者というより、商品開発の研究者でしたね。本当に、最後の最後まで。80代になって一線を退いた後も、駒込の自宅近くのガレージを借りて、新商品開発を続けていました。自費で試作機を購入し、OB社員に手伝ってもらいながら。その頃の研究が、のちのロングセラー商品の誕生につながったとも言われています」

自宅近くに研究スペース“駒込食品研究所”をつくり、2003年に91歳で天寿を全うするまで、松尾孝さんは生涯にわたり研究を続けました。最後まで、おいしい商品を探し続けた人生でした。

「私たち孫にとっては、いつもやさしい祖父でしたね。毎年、祖父の誕生日には家族みんなで広島に集まって、潮干狩りをしたり。テレビで一緒に野球を見たり。決まって広島東洋カープの試合でした(笑)。ただ、普段はつねに仕事のこと、食品のことを考えている人だったと思います」

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二宮さんのバイオリン教室発表会のために岩国を訪れた松尾孝さん夫妻 (右から)孝さん、妻の寿美子さん、二宮さん

孝さんが広島で生まれたのは1912年。実家は飼料や工業用米ぬか等の製造販売を行っていました。孝さんがまだ18歳ごろのとき、父親の怪我により早くも家業を継ぐこととなります。当時は、戦中・戦後の食糧難にあえぐ時代。その中で孝さんは食品を研究し、不足する米や麦の代用食を販売し始めました。以降、徐々にお菓子づくりへとシフトしていったのです。

加工227_創業当時の松尾孝氏(VHS)

家業を継いだころの松尾孝さん

若き頃に始まり、晩年まで続いた研究者としての人生。二宮さんは、孝さんが研究者として邁進するきっかけになった言葉があるといいます。

「20歳前後の時、祖父は広島県の連合青年団の幹部講習会に参加したのですが、そこに登壇した講師が口にした『一人・一研究』という言葉に感銘を受けたといいます。生涯その言葉を大切にしていましたね」

青年たちを前にした講師は、こう言いました。

「君達の一生は、先輩が築いた輝かしい歴史と文化と、幽遠な未来とを結ぶ鎖となることだ。そのために、君達若い青年は、この世の中に何か一つ、後世に残る仕事を成し遂げなさい。“一人・一研究”です」

この言葉がきっかけとなり、孝さんはひとつの研究を始めます。それは、戦争による食糧難の中で、健康食品を作ること。カルビーの創業、そして社名の由来にもつながる決断でした。

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「当時、食糧難による栄養不足、特にビタミンB1の不足による脚気(栄養失調症の一種)が深刻化していたのです。そこで祖父が目をつけたのが、米ぬかの中にある胚芽でした。胚芽はビタミンB1が豊富に含まれながら、活用されていませんでした。その胚芽を取り出す技術を開発し、健康食品を作り始めました」

孝さんは、胚芽を野草に混ぜた団子をつくり販売します。供給の少ない米や麦の代用食としてでした。さらに米ぬかが入手しにくくなると、やはり今まで活用されていなかった“さつまいものでんぷんをとったあとに残る繊維”などを使って代用食を開発。食糧難と栄養不足に苦しむ人の健康を考えたのでした。

戦争が終わり、徐々に食糧不足が解消される中で、孝さんの研究・開発する商品も代用食から飴・キャラメルへと移っていきました。しかし、孝さんの健康への思いは変わらず、当時のキャラメル商品は「カルビーキャラメル」と名付けられました。この商品名が、のちの社名となったのです。

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「カルビーキャラメル」

カルビーのDNAとして今も続く「未利用資源の活用」

その後、お菓子の事業に力を入れると、多くのヒット商品を生み出しました。最たるものが1964年に発売された「かっぱえびせん」です。広島はえびの名産地であり、孝さんが幼少期から親しんだ大好物。そのえびを、当時作り始めていたお菓子の「あられ」に入れられないかと考えたのが始まりでした。

しかし、商品化までは試行錯誤が続いたといいます。実際に発売されたのは数年後。二宮さんは「納得いくおいしさになるまで、決してあきらめない人でした」と言います。

妥協しない姿勢は、生涯を通じて変わりませんでした。商品で何か気になれば「深夜にタクシーに乗って、駒込の自宅から茨城の下妻工場まで行ったこともある」と振り返ります。「夜中に急に起きて工場に行ったり、早朝から従業員に電話したり。いつも商品のことを考えていました」

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いろいろな食品を研究・開発する中で、一貫して大切にしていた考えがあります。いままで食糧として使われていない資源を活用する「未利用資源の活用」です。胚芽やさつまいもを使った代用食はその例。さらに、カルビーの主要商品である「ポテトチップス」も、じゃがいもという当時未利用だった資源を生かしたものです。

「祖父は、1967年に『かっぱえびせん』のプロモーションでアメリカを訪れ、大量の『ポテトチップス』が食べられているのを目にしました。以降、次の商品候補として『ポテトチップス』に注目するのですが、本当の意味で販売を決めたのは、じゃがいもの加工品の多くが未利用資源となっている事実を知った時でした」

1967年_かっぱえびせんニューヨークに出展_松尾孝氏夫妻アメリカより帰国

訪米したときの松尾孝さん(中央)

それは、1968年。孝さんが北海道を訪れたとき、当時の副知事からじゃがいも生産の実情を聞きました。「生産されたじゃがいもの半分以上はでんぷんのみとって、残りは飼料になっている。アメリカのように、でんぷん原料以外の加工食品を作ってほしい」。まさに未利用資源の活用に合致する“声”でした。

加えて、未利用資源を使った食品の開発は、若き頃に広島で作った代用食にも通じます。これ以降、「ポテトチップス」の製造・販売を見据えて、じゃがいもを使った事業を本格化しました。1971年に「仮面ライダースナック」を発売しました。そして、1972年に「サッポロポテト」を発売し、じゃがいも製品の販売体制の土台を構築。1975年に、満を持して「ポテトチップス」を世に出したのです。

「ポテトチップス」が生まれるきっかけにもなった「未利用資源の活用」。この概念は今もカルビーで大切にされており、一般的には廃棄されることも多い「じゃがいもの皮」の活用方法などを研究し続けています。

アルミ蒸着フィルム採用、農家との直接契約。打ち破ってきた常識とは

健康でおいしい食品を、たくさんの人に届けたい――。
孝さんの信念はすべてそこに集約されていたといえます。だからこそ、信念のためなら当時の常識にも抗いました。たとえば、商品のパッケージ。昔のお菓子は、袋の中身が見える透明のフィルムが主流でしたが、孝さんは商品の鮮度を保つことを優先し、中身の見えないアルミ蒸着フィルムを1983年に初めて採用しました。

「流通の方からは相当反対を受けたようですね。当時の感覚では『中身の見えないお菓子をお客さまは買わない』と。実際、カルビーの『ポテトチップス』も最初は透明フィルムで販売していましたが、品質や鮮度の劣化が顕著でした。祖父は品質や鮮度の保持を優先し、反対を押し切ってアルミ蒸着フィルムに変えたのです」

1975年_ポテトチップ うすしお味_発売当時

発売当時の「ポテトチップス」

孝さんが行った“改革”は他にもありますが、とりわけ大きいのが、じゃがいも農家と直接契約を結び、原料じゃがいもの栽培、収穫、貯蔵から配送まで、一貫管理する体制を築いたことです。市場に流通しているじゃがいもを購入する従来のスタイルではなく、原料の生産から農家の方と一緒に行う。そのためのグループ会社・カルビーポテトを1980年に設立し、農工一体の事業スタイルを作りました。

「価格の変動する農作物で、値段の決まった加工品を製造・販売することはできない。生産者の方と共にあらかじめ年間の収量や価格を決めることで、安定した原料調達や製造ができ、生産者の方も、年間の生産計画を立てやすい。『両者が良い環境にならなければ事業は継続できない』と、祖父は事業を継承する息子たちとこの体制を構築していきました」

健康でおいしい食品を作るためなら、そしてそれが多くの人の喜びになるなら、たとえ常識と逆行してもためらいなく決断する。それが孝さんの姿勢でした。

「祖父はよく『商売は人助け』と言っていました。事業の始まりが食糧難や栄養不足に対する食品開発でしたし、根底にはつねに社会課題の解決があったと思います。2011年以降、災害が多発する中で、私たちも避難所に救援物資をお送りしています。そのとき、『カルビー』という社名を聞いて皆さんに喜んでいただける、おいしい食品を想像していただけるのは本当にうれしかったです。きっと本人も喜んでいるのではないかなと」

松尾孝

松尾孝さん

100円の「ポテトチップス」に見る、失敗を恐れない姿勢

孝さんの人生を振り返り、二宮さんは「とにかく失敗を恐れない人だった」と言います。さまざまな改革に挑んだことは先ほども触れましたが、ほかにもこんなエピソードがありました。

「『ポテトチップス』を発売するとき、先に売られていた競合商品は定価150円。すると祖父は『うちは100円で発売しよう』と提案したようです。ただ、『ポテトチップス』は製造に手間がかかり、原価率が高い。それでは儲からないと猛反対を受けたようですね(笑)。しかし彼は、低価格でも販売数を伸ばして利益を上げると譲らず、最終的に反対を押し切って100円で売り出しました」

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そして、この「100円」をネタにしたCMが制作されました。「100円で『カルビーポテトチップス』は買えますが、『カルビーポテトチップス』で100円は買えません」と言ったCMです。このフレーズは話題になり、当時の流行語に。商品の知名度が高まり、「ポテトチップス」の販売数が上がるきっかけとなりました。

カルビーのCMといえば、「かっぱえびせん」の「やめられない、とまらない」というフレーズも定着しています。孝さんは、生前、CMの内容や演出も細かくチェックしていたとのこと。いっときは「テレビドラマにハマっていて、ドラマを演じていた女優さんに出ていただいたこともありました」と二宮さんは笑います。

「基本的に、なるべく自社の仕事は内製する方針でしたね。食品の研究開発からCM制作まで。一から自分で会社を経営してきた人間としては、当たり前のことだったのかもしれません」

失敗を恐れず、そして自分たちが主体となって行う。それが孝さんのスタイルだったのでしょう。このDNAは、これからも大切にしていくべきものです。

「もともと『商売は人助け』で生まれた会社であり、そのためなら失敗やあつれきを恐れずに進んできた歴史があると思います。これからのカルビーもそうありたいですね。食を通じて社会に貢献するためなら、失敗を恐れずに進む。それは、祖父の姿勢そのものかもしれません」

1987年、孝さんは社長職を退くにあたって社員に挨拶を行いました。壇上で話し始めた孝さんは、「かっぱえびせん」の開発秘話に熱が入り、40分ほど続けてしまったといいます。その後、さらに「ポテトチップス」の話を始めようとしたので「みんなで慌てて止めました」と、二宮さんは笑顔で語ります。

「祖父の晩年に家を訪ねると、『昨日の記事読んだか?』と新聞を持ち出してくることがよくありました。そこには、栄養の研究や食品に関することが書かれていて。『この先生はいいことを言っているぞ』なんて言いながら(笑)。本当に、健康な食品に生涯を捧げた人だったと思います」

どこまでも食品が好きで、おいしい食品を人々に届けるためなら失敗を恐れなかった孝さん。彼の信念は、今もこれからもカルビーの根幹にあります。


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