今日はカルビー72歳の誕生日。創業の地、広島を紹介します。
「カルビーは広島発祥です」というと、大半の方に驚かれます。おそらくカルビーは東京発祥の会社だと思われているのです。ときには、「えっ、赤羽じゃないんですか?!」と返ってくることも。今では東京駅の真上にオフィスを構えていますが、2009年までは赤羽に本社がありました。1973年に広島から東京に本社を移転してから48年も経過して、すっかり広島より長くなっていたのか…、それは東京の会社と思われても仕方ない。
しかし、カルビーのルーツは広島にあります。
広島といえば、厳島神社や原爆ドーム、平和記念公園など外国からの観光客の方にも人気で賑わいのある観光スポットがたくさんありますが、市内でもそんな賑わいとは縁の薄い土地でカルビーは産声を上げました。どここれ?といわれそうではありますが(笑)、カルビーとの縁が深い場所をTHE CALBEE編集部が紹介します。4月30日の今日は創立記念日ということで、カルビーの昔話と共にしばしお付き合いください。(2019年3月訪問)
創業者の孝さんは地図上の「太田川」でえび獲りをしました。「太田川」は現在では「旧太田川」や「本川」といわれています
広島市西区楠木町~松尾糧食工業所があった場所~
1931年、カルビーの創業者である松尾孝さんは、事故で足が不自由となった父親の代わりに、19歳で家業を継承しました。その当時の金融恐慌による株価暴落なども重なり、多額の借金を背負ってのスタートだったそうです。
なんとか25歳で借金を完済した1937年には、「松尾巡角堂」から「松尾糧食工業所」に社名を変えて、西区楠木町へと移転し再出発を図りました。
松尾糧食工業所では、「未利用資源の活用」「人々の健康に役立つ食品をつくる」を創業の精神として、陸軍から手に入れる米ぬかから胚芽を抽出する機械を自ら考案し、胚芽や砕米などに野草を混ぜて団子にして代用食として売り出しました。
苦労して立ち上げた松尾糧食工業所で、孝さんは団子を作って売ったのです。そしてそれは、栄養不足だった当時の人々に、健康食品として受け入れられました。
事業は軌道に乗っていきますが、1945年8月6日、広島に原爆が投下されました。この日、松尾糧食工業所の工場も倉庫も、加えて自宅も全壊となってしまいます。松尾一家は命からがら再会することができ、以降、広島の復興に尽力するのですが、松尾糧食工業所があった場所はどこなのだろう?と気になったので行ってみました。
すると…今では市民の憩いの場、公園となっていました。人々の健やかなくらしに貢献できる場所ですね(カルビーの企業理念なのです)。
広島市西区 三篠橋~創業者がえび獲りをした場所~
次に、自宅があった場所にも行ってきました。そこは、孝さんが幼少期によくえび獲りをした川の近くです。孝さんは「えび獲り名人」と言われ、獲ったえびでお母さんがつくるかき揚げが大好きでした。このえびをあられに入れられないか?と考えたのが後の「かっぱえびせん」なのですが、そのエピソードは『かっぱえびせん開発秘話』をご覧ください。
自宅の跡地はマンションになっていました。
このマンションのすぐ近くに三篠橋(みささばし)がありまして、その下を太田川(現在は旧太田川や本川と言われています)が流れています。孝さんがえび漁(笑)を行っていた川です。
今となっては、ここでえびが獲れたというのも信じがたい光景ですが、今も昔も散歩やジョギング、サイクリングなど市民にとってのリフレッシュゾーンであることは間違いないと思いました。天気のいい日は気持ち良さそうですね!
広島市南区宇品御幸~初代広島工場があった場所~
原爆投下により街は一瞬にして焼け野原となりましたが、孝さんはいち早く工場を再建し、10月には団子の製造を再開しました。すると、宇品陸軍糧秣支廠(うじなりくぐんりょうまつししょう)食肉処理場の一部払い下げを受けることができたのです。この機に、製粉業を営んでいた松岡政一氏と大和糧食工業株式会社を設立し、翌46年1月に宇品町(現・広島市南区宇品御幸)に拠点を移して団子の製造に励みました。団子は大好評で、販売所には行列ができたそうです。
宇品陸軍糧秣支廠(うじなりくぐんりょうまつししょう)の払い下げを受け、後に広島工場となった場所/写真提供:広島市郷土資料館
下部の赤い丸は、レンガ壁(後述)が今も残る場所(現在は宇品西公園)
そして、この後、1949年にカルビー株式会社の前身となる松尾糧食工業株式会社が設立されました。企業カルビーとしての歴史はここからスタートします。この松尾糧食工業時代は、なんとキャラメルを製造販売していたのです。
キャラメル事業はそこそこ上手くいっていたのですが、数年すると競争が激化し、さらに有力市場だった九州が水害に遭います。孝さんは、不渡り手形を出してしまいますが、「負債は一生かけて返済する」と宣言し、新たなスタートを切りました。それが、「あられ」の製造です。通常「あられ」は米から作られますが、1950年代は米が配給制で値段も高く、安く手に入る小麦粉から製造できないか?と孝さんは考えました。何度も試行錯誤を繰り返し、やっとの思いでできあがったのが日本初の小麦粉あられ、「かっぱあられ」です。1955年のことでした。
発売当時の「かっぱあられ」。パッケージに描かれたかっぱのイラスト(人気漫画家・清水崑先生作)が好評で人気商品となりました
同年、社名をカルビー製菓株式会社に変更しました。人々の健康に役立つ商品づくりを目指して、カルシウムの「カル」とビタミンB1の「ビー」を組み合わせたのが社名の由来です。
社名の看板前は、従業員の撮影スポット
宇品の工場は「広島工場」と呼ばれ、2006年2月までカルビーが使用しましたが、老朽化や周辺環境の変化により工場を現在の廿日市市に移転したため、2007年に解体されました。現在は住宅地となっていて、工場の一部だったレンガ壁と被爆建物としての歴史を後世に伝えるためのプレートのみが宇品西公園に残っています。カルビーの原点は宇品にありました。レンガ壁が置かれているすぐそばの広島市郷土資料館に足を運んでいただくと、当時の詳しい状況をご覧いただけます。
現在の広島工場にも同じレンガ壁が展示されていますので、工場見学に行かれるとご覧いただけます
廿日市市木材港北~現在の広島工場がある場所~
現在は廿日市市の港に面した立地に工場が2つあります。ピンクの外観の広島工場は宇品から移転して2006年より「かっぱえびせん」や「サッポロポテト」などのスナックを製造しています。1986年操業の広島西工場では主に「ポテトチップス」を製造しています。
広島工場(左)、広島西工場(右)
広島工場上空から瀬戸内海と宮島を臨む
そして、カルビーは2024年4月の操業を目指し、この2工場の機能がゆくゆくは移転・集約される新工場を佐伯区五日市港に建設予定です。面積はカルビー最大規模の100,000m²となります。
団子の製造から始まり(もっと昔は羊羹)、キャラメルやあられを経て、今ではスナック菓子とシリアルを多くの方々へお届けできるようになりました。
72歳の誕生日に、過去を振り返りながら創業の地・広島を巡ってきました。noteの街の皆さまも、広島へ行かれた際にはカルビーをちょこっとでも思い出していただければ嬉しいです。
創業者・松尾孝については『「商売は人助け」おいしくて健康に良い商品づくりに生涯を捧げたカルビー創業者・松尾孝の情熱』でお読みいただけます。